エッセー


























































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2015.4.2




架け橋   随筆 青梅・吉野梅郷     第3号   平成23年8月1日発行



私の愛読書 文芸誌「新潮」 架け橋 第2号 平成23年2月1日発行


    私の愛読書     章雄


 私はもともと勉強が好きではなく、大学も推薦入学でやっと入った。家が不動産業なので、宅建の試験を受けたが、なかなか合格しなかった。五年間で三回挑戦し、やっと合格した。

 合格を機に父が営んでいた、休業中であった不動産屋を私の名前で開業した。

 試験勉強から解放され、読書する気になった。

 たまたま読み始めたのが、文芸誌「新潮」である。

 昭和五三年七月号に掲載されていた吉村昭氏の「遠い日の戦争」に深く心を奪われた。

 「新潮」のバックナンバーを集める気になった。近所の古本屋さんが六百冊ほどまとめて探してくれた、その中に、大正四年、八年と大正時代の本も含まれていた、その後、神田の古本屋さんを回り、更に二百冊ほど探し、八百冊ほどになった。

 短編だけでも千編くらい読んだ。

 あることを機に「新潮」を購読するのをやめた。

 しかし、今、文芸家の会「架け橋」の末席に座らせて頂き新潮を、三十年ぶりに読もうと決意している。

 さっそく、事務所の二階にある、新潮の本を年代順に整理した。

 私の愛読書は「新潮」である。

2014.11.20

 


 


日帰りバス旅行     

                     章雄

 私が営む不動産の事務所は、今日から八日間の夏休みに入った。一日目は、日頃から何かと苦労をかけている妻をねぎらってやろうと、日帰りバスツアーに二人して参加した。

 行先は富士山麓の観光で、ついでに、ブドウやモモ狩り、白糸の滝、ワサビ園、酒蔵など、もりだくさんのスケジュールが組まれている。

 バスは東京の街中を抜け、高速道路をひたすら走る。

 初めての立ち寄り場所「わさびの里」に到着する。富士山麓のわさび園は、深い緑の森にかこまれている。済んだ空気と冷たい清流に洗われながら、若わさびは生き生きと育っている。そのすがすがしさに、心の芯まで洗われる思いだ。

 いよいよバスは、富士山の新五合目に向かって、最初の山道をゆるやかに登る。麓あたりは濃い霧で何も見えない。時計の針は十時五十五分を指していた。

 そうこうするうちに観光の目的のひとつ「白糸の滝」「音止めの滝」に到着した。

 あたり一面霧が深く、滝は見えない。耳をすませば、かすかに水のおちる音、鳥のさえずりなどが聞こえて、真夏の暑さを忘れさせてくれる。

 その反動があってか、バスの駐車場にもどると汗がいやというほど吹き出てきた。

 これから葡萄狩りと桃狩りへとバスはいそぐのだ。天候はあいにく、曇り時時小雨になってしまったが、今のところ傘を使うほどではない。

 ブドウ、モモは、私の大好物である。おもいきり食べようと、食い意地を張って楽しみにしてきたが、いざ目の前にどっさり置かれると、かえって食べる意欲がなくなる。

 そそうに切りあげて、バスに乗り込む。

 次はハーブ園の見学でおよせ五分で着くという。

 ハーブ園はハーブだけでなく多くの花が色を競いあっていた。まるで花の臥床である。

 ハーブ園では、男性の売り子が待ちかまえていた。話たくみに、お客に近づき、話たくみに、お客に近づき土産を売ることにけんめいだ。「ハーブの土産は絶対に買わない」と決めていた、しっかり者の妻だが、やっぱり売り子のうまい話しにのせられてしまったのか、帰りには三袋も、手にぶら下げていた。

 妻は私と顔をあわせるなり、気はずかしそうに、笑った。

 いよいよ最後の訪問先、酒蔵所にむかう。

 大型バスが何台も置けるような酒蔵所広い前庭に、バスがすべりこむ。

 バスを降りると、酒蔵の案内人がいそいそと迎えてくれた。

 頭に殿様の髪をみたてた帽子をのせて、おどける様がユニークである。話の節節に、酒蔵の経営の大変さを語る、この人は、ここではそれなりの地位のある方のようであった。

 恥も外聞も捨て、上司が販売力を高めるために努力している様を見れば、きっと、従業員も勇気づけられ、働く意欲を燃やす事であろう。

 私は酒が好きなので、酒ができるまでの工程や、酒の味、酒の種類など、さまざまな説明は非常に興味深いものがあった。利き酒をいただいているうちに、その味のよさにひかれて、売店に足が向いてしまった。今度は私が日本酒、焼酎の土産袋を妻の前にかざすと妻が小さく笑い返してきた。

 酒蔵所を出るとすぐにバスは帰路につく。しかし、車の事故による渋滞に巻き込まれてしまった。この調子だと、終着駅の上野着くのは何時になるのか予想ができない。

 バスはあいかわらずほとんど動かない。いらいらしながら時計を見ると針は六時二十八分を指していた。

 やっと、少しずつ車が動き始めた。しかし、「高速の入り口までは、これからまだ四、五十分はかかるだろう」とのアナウンスに「どうにでもなれ」と、なかばやけ気味になる。

 時計を見る回数が、いやでも多くなる。もうすでに酒蔵所を出てから二時間近く時間が経過しているというのに・・・・・。

 上野原から高速に乗ったとしても、この調子だと、自宅に着くのは十時頃になるだろう。

 今日の旅は時間に追われ、背を押され、疲労に泣いたあわただしい一日だった。しかし、短時間にあれだけの多くの楽しみを味わったのだから、不満もほどほどにしよう。

 そして、何よりも嬉しいのは、私の隣席で、かすかに寝息をたてる妻の穏やかな顔に「あーいっしょに旅にでられてよかった」と満足できたことだった。 

 架け橋 第2号 平成23年2月1日発行 初めてのエッセー 田口兵先生に筆を入れて戴いた 

2014.11.7


10月2日


森の中のオカリナ演奏

                                                     章雄              

 

 

 私は、仕事に出る前のわずかな時間に、毎朝、堀切菖蒲園を散策する。

 今年の菖蒲は成長がよく、開花するのが、例年より一週間ほど早く開花しそうである。

 そこで六月二日の定休日に、水元公園と堀切菖蒲園の開花の状況を見に出かけた。

 水元公園の菖蒲は桜でいえば二、三分咲きであったが、堀切は七分咲きであった。

 そんなぐあいで、水元公園の菖蒲はそろそろ見ごろだろうと、六月十六日に足を運んだ 当日はなぜか早く起きすぎた。時計を見ると午前二時半であった。それならば、早めに家を出て、久しぶりに水元公園の裸像脇から日の出の写真を撮りたくなった。

日の出の時間にはまだ間があるので、いつもの新聞の切り抜きをする。あまりにも早く起きたため、ウトウトしながらの作業だったのでいっこうはかどらない。

 眠気におそわれていたこともあって、日の出の写真はあきらめた。妻が起きてくるのを待って、一緒に食事をする。

 定休日といえば、いつも私は朝早く起きてカメラと原稿用紙を持って出かけてしまうのだが、普段、妻は私の仕事を手伝い苦労をかけているので、少しでも休養させたくて家の雑事を手伝うことにした。

 そんなこともあって、水元公園に着いたのは正午ちょっと前であった。

 菖蒲園では近所の中学生らしき多数の生徒が熱心に写生にとりくんでいる。菖蒲は見頃、空は快晴と散策日和である。六月とは思えぬ爽やかな風に心が和む。

 しばらく菖蒲を鑑賞したあと、久しぶりに自転車でハス畑に向かってみる気になった。 ハスの葉は幾重にも重なりあうほど茂っていた。二、三週間すればきっときれいなハスの華が開花するだろう。

 それにしても、今日は、ほんとうに爽やかな風が吹いている。

 風を楽しみながら、観鳥台にいくと運よく青鷺が七羽いた。一番近い青鷺は私と五メートルと離れていない、観鳥台の高い木の塀が鳥に安心感を与えているのだろう。

 それを見ながら、持参したビールを飲み、パンを食べた。

 二時を回ったので、帰路についた。水元公園は高木のメタセコイヤの森が広く知られている。突然、森の中から綺麗な音が流れてきた。オカリナだった。

 あまりにも素晴らしい演奏に足が止まる。帰宅することも忘れ、つい聞き入ってしまった。演奏者に気づかれないように、大木の陰で耳を傾ける。爽やかな風にのり樹樹の間を通り抜けるオカリナの音色、静かな風、ときおり通る人が奏でる枯れ草を踏む音、静寂の美の享受。 だが、これほど静かな幸せでいいのだろうか。

 いまや日本も世界も混沌としている。あまりにも暗く、悲しいニュースばかりである。

 しかし、こんな時代だから、人々はどうしたら静かで平和な毎日を送れるかを考えなければならない。私の胸にその答えとなる一言が聞こえてきたように思えた。

 暗き世に 自己を鍛練 研ぎすまし

地域うるおせ 君の真心

オカリナの音がまるで今の幸せを胸にとめて、人人をしあわせにしてあげなさいとばかりに演奏が続いている。私は心で拍手と感謝をおくりながら水元公園を後にした。



 

   Sさんの最期

 

 古いアパートを管理している。築年月は定かではない。多分五十年以上は経過している

 七十歳前後の男性が住んでいた。

 一階が店舗で古くからパン屋さんと最近居酒屋が入居した。階は四室ある。トイレは共同である、長いことその男性だけが住んでいた。Sさんという。

 廊下にはSさんの仕事の材料であろう、電線とか器具、工具が散乱していた。他に入居者が居ないときは、それはそれでよかったかもしれないが、隣に新たな方が入居しても状況は変わらなかった。

 当然私は廊下を片付けるように注意した。たまたま、そのアパートの前を通った消防官や警察官にも注意してもらったが、一向に片付けるようすはなかった。

 歳月は流れ、九月中旬その部屋に行くと、Sさんは携帯で電話していた。電話の先は大きな病院らしかった。指定された診察日までは待てないと言ったが拒否されたようだ。数日後の九月二十日、本人が救急車を呼んで地元の病院に入院した。

私は入院した病院の要請で、以前から診察を受けていた、築地の癌センターに、九月二四日レントゲンフイルムを取りに行った。  

 それから二日後の九月二六日、私の父が同じ病院に救急車で緊急入院、大動脈瘤亀裂の大手術であった。

 父は集中治療室、面会時間が短いので、長時間はそこに居られない。Sさんは大部屋、縁者は誰も居ないし、会いたい人もいないと言っていた。

 私は毎日の仕事が終わると、父のところで短時間、Sさんのところで長時間過ごすという日々であった。

 Sさんの病名も医師から私に直接告げられた。三箇所に病巣があると言う、肺癌、リンパ癌、膀胱癌とのこと。余命もごくわずかだと告げられた。

 医師からの言葉は平常心では聴けなかった。

 Sさんは肺に病巣があるにもかかわらず、タバコを吸いたがった。先生は「本人が希望するなら吸わせてやってください」と。

 「Sさんタバコを吸うかい」というと、是非吸いたいと、久し振りの笑顔であった。

 九月二九日、一本目は本当に美味そうに吸った。

 翌日Sさんは衰弱が激しかった。

 「今日も吸うかい」。Sさんは静かに頷いた。車イスを押し階下へ。その日は東京も台風の影響で風が強く、外に出られなかった。

職員の出入り口のところで吸った。

 だが、衰弱しきったSさんを見て誰も咎めなかった。私は心から病院の関係者の心遣いに感謝した。

 翌日のSさんは衰弱というより、車イスに座ることさえ危ぶまれた。「Sさん吸うかい」私は車イスを押した。

 Sさんの背中の薄さに涙を禁じえなかった。

 外の喫煙所に行くと患者さんが二、三人吸っていた、皆こちらを向いた。一本火を点けてやり口元に持っていったが、タバコを何回も落とした。これが最後のタバコだった。

 先生からSさんの余命は二、三日だと聞かされる。

 Sさんの病状が急変した。看護師から携帯に電話があった。すぐ来てくださいと。

 Sさんは十月五日に亡くなった。秋とはいえ汗がうっすらにじむ日々が続いていた。

 Sさんの担当の医師が非番のため散髪にいっていたが、看護師が連絡を取ってくれた。先生は「章雄くんはそこに居るのか。看護師が「居ます」。

 先生「そうか、じゃ、安心だ」と。

 先生は駆けつけてくれた。Sさんは大部屋である。ベットの周りにカーテンを引いた、最期は医師と看護師と私の三人で看取った。

 先生は、「今、心臓が止まった」。と。

 私は先生に聞いた、Sさんは聞こえるのかと、先生はまだ脳は酸素を求めているので、聞こえる可能性はゼロではないと言った。

 私はSさんの耳元で、「Sさん先生が治ると言っているよ」と静かに力強く伝えた。

 一週間後の十月十二日、荒川区町屋斎場で荼毘に付した。地域の婦人の方二人が斎場に同行してくれた。

 福祉の火葬といえども斎場の関係者の方方の親切な対応に感動した。

 私たち不動産業者は地場に密着して仕事を営んでいる方がほとんどだと思う。

 日本は明治二二年には男性の平均寿命が四二.八歳、女性が四四.三歳であったのが、平成二五年の統計では男性が八十.二一歳、世界で八位。女性が八八.六一歳になり、世界一の長寿国となっている。

 単身の高齢者の入居者も増え、また不景気が長引くなかで家賃を滞納する人も多く様々な問題を抱えて悪戦苦闘でがんばっているというのが我等不動産業者の実情である。

 平成二六年の今年だけで管理しているアパートで、三人が孤独死していた。

 しかし、一人一人の人間を大切にする仕事だからこそ、今後も地域と人間をつなぐパイプ役を果たして行きたいものだと思う。

 Sさんのような方の最期を看取ることも我々の仕事の一部なのかもしれない。

 Sさんの最期を看取ってから、早いもので十年以上が経過した。

 

 



9月2日(火)

 

   私の恩師

                  章雄    

 源流は人間の心の内から流れるのである。

 私の恩師というテーマ、心の内奥の問題であり、重要であり、深い。

 しかし、「架け橋」主宰、二ノ宮氏より、懇談の席で、身近な事柄に関することでもよいのではないかとの、アドバイスがあった。

 「架け橋」十二号に掲載した、私のエッセーの題は「サイクリング」である。そこに、私が酒好きであった。ことを書いた。

 私は、酒を飲み始めて四十年間、休肝日など作らず、毎日飲んだ。

 飲まないと、寝つくことができないのである。お酒は生活の一部であった。

 地元で不動産業を営んでいることもあり、様々な役職についている。行事のたびに酒席になる。

 しかし、困ったことがあった。私は「架け橋」の同人になり、新聞の切り抜きを、自身の勉強のテーマにしている。朝刊、夕刊まで含めると、一日四紙の読み込みと、切り抜きになる。

 それが、会合の度に酒を飲んで、その時間が取れなくなると、次の日は八紙、三日で十二紙。

 水曜日の定休日も、好きな写真撮影ができない。一日中、新聞の切り抜きで終わることもしばしばだった。

 平成二十四年十二月二十七日、鼻が出たのでテイッシュでふくと、血が付いていた。事務所の外で鼻水を吸い、路上に吐き出すと血が混じっていた。

 翌日、意を決して、かかりつけの近所の内科医院に駆けこんだ。診察の結果、鼻の粘膜が風邪のため弱って、血がにじむ、風邪がなおれば出なくなると。薬を渡された。

 診察前に決意した禁酒は、今も続いている私が、勉強時間を確保出来る恩師は、鼻血

である。



  

  土門拳 昭和のこどもたち展

 

これから日本橋のデパート高島屋に妻と行く。昨深夜、日課の新聞の切り抜きを事務所の二階でやっていた。

  売新聞に土門拳の写真展の広告が新聞の一面を使い掲載されていた。その広告を眺めていると無性に行きたくなった。

以前パソコンの得意な友人の家で土門拳の「筑豊の子供」の写真を大きなテレビモニターで見せてもらったことがある。土門拳の少女を撮る温かさを感じた。いつか、チャンスがあったら、土門拳の写真展を見に行きたいと思っていた。

日本橋髙島屋デパート八階の「昭和の子どもたち展」に入場し、写真の撮られた年代をみると、私の同世代の子供達の写真が多く、まるで私自身が、私の友人たちがモデルになっている感じだ。

私は昭和二十五年年七月に生まれた。

三、四歳の女の子「神田っ子」の写真は1953年(昭和二十八年)撮影で、同世代のというより、同年代だ。

「ゴムとび 築地」(昭和二十九年)の「背景にいる綿半纏を着ている子もまさに見慣れた風景だ。

私達夫婦は子供ができなかった。私は町の不動産屋である。

 三年前に若い夫婦が私の事務所にお客さんとして、家を探しに来た。奥さんは妊娠していて、お腹が大きかった。

縁あり、私が紹介した土地に三階の建物を建てた。程なく、女の子が生まれた。その子の名前は「なつめ」と命名された。

 ご主人は福井県の生まれ、奥様は京都のお寺の娘で、共稼ぎの夫婦である。東京には仕事関係の方しか知りあいがなく、生後三ヶ月くらいから毎週土曜日の夕方、私の事務所になつめちゃんとご夫婦三人で来た。

ご主人はお酒が好きでお酒持参で来た。自然な形で六時が過ぎると事務所の二階に上がり、なつめちゃん中心の食事会になった。

写真が趣味である私は、事務所に来たなつめちゃんの写真を撮るようになった。

いつしか、大変な数のなつめ写真なった。

 昨年の十月、地域の文化祭ともいえる、南綾瀬地区センター祭りでなつめちゃんの写真個展「なつめの世界」を開催した。写真展の副題は「もうすぐ二歳」であった。    

今年も「なつめの世界」第二弾を開催する予定である。

どのように第二弾をやろうか考えている最中であった。そんな中での土門拳「昭和のこどもたち」展である。

私の写真展は、なつめちゃん一人であるが大先輩の土門拳先生の写真展から何かを参考にしたかった。

はやる心で、日本橋「髙島屋デパート」に向った。200点の写真は迫力があった。

土門拳先生のコメントが素晴らしかった。

 「相手が気がつかないうちにシャッターを切らなければスナップは面白みが無い」。

紙芝居に群がる子どもたちの写真は、まさに私自身の風景である。その当時、私たちの町にくる、紙芝居屋さんはエックスのおじさんと呼ばれ子供たちから慕われていた。

メンコ、ベーゴマ、チャンバラごっこ、土門拳の写真展の中に「木原孝明」がいた。

私は土門拳先生の写真展を見ながら、感じ考えた。

 それは、感動的な「なつめの写真展」を開催すると決めた。闘志が湧いてきた。

それには、自身が感動しながら「なつめの写真展」の準備をすることに尽きると思う。

南綾瀬地区センター祭りは平成25年10月19日、20日である。


 今年の南綾瀬地区センター祭りは平成26年10月18日、19日の予定で、ご主人の親が石川県から「なつめの写真展」を見に来る予定である。

 

  

 



   サイクリング

                               章雄    

 

 毎年、桜が散り、ツツジが主役を迎えるころになると、いつも思い出すことがある。

 目的は、飯能の山道での風景を楽しみながらのサイクリングである。

 朝五時に堀切を車で出発し、七時半に、埼玉県入間郡の鎌北湖畔無料駐車場に着いた。

 三人で行った。二人は私より十歳くらい年下で、なおかつ現在も鍛えている、スポーツマンである。

 一人は大学時代サイクリング部に所属し、今の趣味もサイクリングだと言う。仮にA氏と呼ぶ。

 もう一人は高校時代、甲子園に何度も出場している名門校で投手をして、プロ野球のドラフト会議で指名された経歴を持つ。

 今も、地元の野球クラブに所属し、葛飾区堀切にある職場から、足立区の自宅まで十二キロあるそうだが、走って帰ることもあるそうです。

 なんで走るのか理由を聞いた。

 「たっぷり汗をかき、シャワーを浴びて、ビールをおいしく飲むため」と話していた。

仮にB氏と呼ぶ。

 A氏にデジタルカメラを持っていく旨を伝えたら「そんな余裕があるかしら」と、せせら笑いをされた。

 鎌北湖畔に着き、車の荷台から、自転車を降ろし、さっそうと、マウンテインバイクをこいだ。

 早速、坂道である。A氏のせせら笑いの意味がすぐ判った。

 二人は登りでも、自転車をこぐことができた。ななめ走りをして上手にこいで行く。

 私は傾斜がきついと自転車をおりて押して行った。下りになると乗るという、くりかえしであった。

 二人は先に行き、分かれ道で待っているという構図だ。

 サイクリング中間点の峠に来た。A氏から来た道を戻るか、ここからはずっと下りになり、町の中に出て、最後は心臓破りの急坂になると説明されたが、今が辛かったので、下り坂の道を選んだ。

 県道に出ると、大事な仕事の電話がかかってきた。

 二人には先に行くようお願いした。

 二つの意味があった。

 一つは、電話の内容が長引くことと、もう一つは、これからずっと上り坂では二人に付いていけないことがわかっていたからだ。

 急な上り坂なので、こいで登れず、二時間くらいひたすら押した。

 珍しく下り坂があったので、自転車に乗りギアチェンジをした途端チェーンが外れた。

 修理を試みたが駄目だった。

 状況を、先に行った、二人に伝えようと携帯電を掛けたが、山の中で繋がらなかった。

 山の中は、平地よりも暗くなるのが早い。

 心細くなってきた。チェーンが外れ、壊れた自転車をひたすら押した。

 時計の針を見ると、四時を廻っていた。

 50CCのバイクに乗った、地元の方らしき老人が、声を掛けてくれた。

 手短に事情を話した。

 「一時間くらい自転車を押すと峠にでる、そこなら携帯は繋がる」と教えてくれた。

 勇気百倍自転車を押した。

 峠で、まず、妻に電話をした。繋がった。

 そして、妻に行った「今、ぼくは、仲間と離れ遭難しているのだと、悲痛な思いで伝えた」。

 すると妻が明るい声で「ソウナンダ」と言った。

 私は、冗談を言うなと、真剣に怒った。

 妻との電話の最中に、仲間が車で迎えに来てくれた。電話を切った。ありがたかった。

 町のなかで、酒屋を見つけた。

 運転手は大の酒好きである。

 私は、最大の感謝の気持ちを込め、地酒四合壜を二本買った。

 一本は、帰ったら飲んでくださいと渡した

 私は、安堵感から運転手に、一杯だけ飲んでいいかと聞いた。

 「どうぞ」。

 酒屋で貰ったチョコに一杯注いだ。

 美味かった。

 もう一杯だけいいか。

 「どうぞ」。

 目が覚めたら自宅に着いていた。

 四合壜は空になっていた。

 

 

 



妻の小言

 

毎朝、妻より早く起きる。ここ二、三年は六時半だが、十年間ほど五時に起きていた。 
妻には、早く起きないようにお願いしていた。
理由は、静かに勉強したいからである。
勉強の中身は、四紙の新聞の切り抜きである。
切り抜くからには読まなければならない。
これがけっこう時間がかかる。
更に心に残る記事を書き写す。そして書き写した原稿用紙を一カ月ごとに綴じ、一冊の本にしている。
新聞の切り抜きは二○○一年から保存していて、現在も続いている。
私の事務所の二階には、本棚ではなく、新聞棚がある。
私は、妻と二人で忙しく不動産屋を営んでいる。
前置きが長くなったが本題に入る。
妻が起きてくると何かしら小言を言う。まるで寝ながら、朝起きたら、主人に何を言っていじめようか考えているみたいに、何も言わない日はない。
結婚して三十三年になるが、未だに、妻の小言がやむ気配がない。
毎朝、私は、いちいち、妻の言うことに、反発し喧嘩になる。
我慢できない時は大声で怒鳴ることもしばしばだ。
こんなこともあった、夜中に妻と喧嘩になった。私の家は二世帯住宅で、妻の両親と、気の強い妻の妹も同居している。
二階が私たちの住居だ。木造住宅なので、それなり、お互いの生活音は聞こえる。
大声で喧嘩になれば、両親と妹にも聞こえる。八十歳を超えている妻の両親にこんな夜中に喧嘩している声を聞かせるのはいやであったが、あまりにもきついことを言うので我慢がならず、大声で言い返したこともある。
 たまに妻が鼻歌を歌っているときでも、小言を言っているように聞こえてしまう。
紛らわしいから、妻に、「小言なのか、鼻歌なのかはっきりしてくれ」、とお願いするとまた喧嘩になる。
私も、六十歳を過ぎ、だんだん体力が落ちてきた。仕事に行く前に体力を消耗するのはばかげている。
ある日、私は考えた。妻が変わらないのなら、自分が変わろうと。
作戦は、妻が何か言う前にこちらから先制攻撃をかけるのである。
なるべく、喧嘩にならないことを話題にする。たとえば、妻が起きてきたら、こちらから、「おはよう」、と声を掛ける。むすっ、としていても、気にしない。ここで、文句を言ったらこちらの負けだ。
ある朝、「おはよう」と言ってみた。
そして、続けて言った。「今朝はきれいだね。化粧もしないで、こんなにきれいな人は見たことがない」。歯が浮きそうになる自分の心を抑えながら話す。
最初は、反発していた妻も、毎日言うと、まんざらでもない顔をする。
あるとき、妻が風邪をしいてしまった。
普段なら、二、三日で回復するのだが、その時は、一週間ぐらいかかってしまった。
恒例の朝の妻の小言がない。
さみしかった。
その一方、一日、二日は、小言がない朝もいいもんだと思った。
しかし、それが一週間も続くと耐えられなくなってきた。
やがて、回復すると、また妻の小言が始まった。
居心地のいい日常生活に戻った。