9月12日

葛飾 まぶしい顔した青年たちの中心に、自分と同じ昭和三年生まれの人物がいた。「うーん、一瞬で若者の心をつかむなんて、たいした方だ」その瞳は、じっと池田大作名誉会長をとらえていた。

池田名誉会長である。まっすぐポスターに向かう、役員からペンを借り、「かつしか」の右下にさらさらと2文字書き加えた「ない」

名誉会長は振り向いた。

「葛飾は、私が初代総ブロック長として戦ったところです。葛飾は「勝つしかない」んだ。

青年部の池田室長が第一歩を記したのは昭和三十年の二月二十七日の日曜日である。香峯子夫人の誕生日であった。東四つ木の運送屋で開かれた、連合地区座談会。230人が集った。

二階の会場に入りきれない。一階の駐車スペースまで、人が溢れた。

総ブロック結成大会。昭和32年9月25日に亀有で行われた。「私は人に言われて葛飾に来たのではない」。室長の気迫が堂内を圧する。「自分で決めて来たのです。全国に先駆けて、葛飾に模範のブロックをつくりに来たのです」「葛飾の戦い」が始まった。

室長の会合は楽しかった。よそがブロックの日に一休みしているあいだ、葛飾はリードを広げてい、下町葛飾は東京では田舎に見られていた。「これから私は、学会全体を見ないといけない、しかし、私がいつも葛飾で指揮ととっていると思って戦いなさい」

二万の心意気

署名簿に二つの揮毫

「葛飾の友の幸せ祈る日々この身捧む門下守りて」「此の世の共戦此の世の人生」葛飾こそ池田門下の筆頭だ。師とともに今世の共戦の歴史を飾るのだ。平成十四年五月五日、葛飾平和講堂。振り向くと名誉会長夫妻が立っていた。「東京一、日本一の折伏で頑張った葛飾に敬意を表して来たよ」

勝利の太陽は東から昇る。 09.4.17

9月12日

葛飾 まぶしい顔した青年たちの中心に、自分と同じ昭和三年生まれの人物がいた。「うーん、一瞬で若者の心をつかむなんて、たいした方だ」その瞳は、じっと池田大作名誉会長をとらえていた。

池田名誉会長である。まっすぐポスターに向かう、役員からペンを借り、「かつしか」の右下にさらさらと2文字書き加えた「ない」

名誉会長は振り向いた。

「葛飾は、私が初代総ブロック長として戦ったところです。葛飾は「勝つしかない」んだ。

青年部の池田室長が第一歩を記したのは昭和三十年の二月二十七日の日曜日である。香峯子夫人の誕生日であった。東四つ木の運送屋で開かれた、連合地区座談会。230人が集った。

二階の会場に入りきれない。一階の駐車スペースまで、人が溢れた。

総ブロック結成大会。昭和32年9月25日に亀有で行われた。「私は人に言われて葛飾に来たのではない」。室長の気迫が堂内を圧する。「自分で決めて来たのです。全国に先駆けて、葛飾に模範のブロックをつくりに来たのです」「葛飾の戦い」が始まった。

室長の会合は楽しかった。よそがブロックの日に一休みしているあいだ、葛飾はリードを広げてい、下町葛飾は東京では田舎に見られていた。「これから私は、学会全体を見ないといけない、しかし、私がいつも葛飾で指揮ととっていると思って戦いなさい」

二万の心意気

署名簿に二つの揮毫

「葛飾の友の幸せ祈る日々この身捧む門下守りて」「此の世の共戦此の世の人生」葛飾こそ池田門下の筆頭だ。師とともに今世の共戦の歴史を飾るのだ。平成十四年五月五日、葛飾平和講堂。振り向くと名誉会長夫妻が立っていた。「東京一、日本一の折伏で頑張った葛飾に敬意を表して来たよ」

勝利の太陽は東から昇る。 09.4.17


本部幹部会で紹介された名誉会長の指針 2015.1.20

これほど世界に「平和の闘争」を広げている団体はどこにあるだろうか。

歴史に輝きわたる人民の壮挙である。

2023/11/16 15:49


名誉会長と共に 新時代を開く2014.9.28

  題目こそ勇気の源泉

 ブロックこそ広布拡大の最前線だ、模範のブロックをつくるにはどうしたらいいか。私は葛飾のブロック長に就いた際、皆と約しあった。

 全会員が、しっかり勤行できるようにしていこうーーーと。

 柔道にも剣道にも基本があるが、幸せになるための信心の基本は勤行にある。日々、真剣に勤行・唱題を重ねた人と、いい加減な人とでは、表面は同じように見えても、3年5年7年とたっていったとき、厳然たる開きが出てくるものだ。

 勤行の姿勢が、生き方にも表れる。力強い勤行、すがすがしい勤行、真剣な祈りを込めた勤行は諸天をも動かしていく。

 私たちが毎日読誦する法華経寿量品に「一心欲見仏 不自惜身命」(一心に仏をみたてまつらんと欲して 自ら身命をおしまず)とある。求道心に燃え、命を惜しまず、法のためにーここに信心の真髄がある。

 

 所詮は題目を唱える以外にない。仏道修行で、一番やさしい修業は題目であり、一番難しい修業も題目を唱えることだ。

 生き抜く力の源泉、勇気と知恵の源泉こそ題目なのである

2023.11.12


名字の言   2014.9.24

 若き日の池田名誉会長の足跡をたどると、あらためて、その超人的な活動量に驚く。しかも病弱でありながらー。

29歳の時、葛飾の総ブロック長に。学会の重責を幾つも兼務し、仕事も多忙な中、個人指導に歩き、会合で語り、その傍ら「男子青年部の歩み」の執筆までした。画板を携え、机代わりに原稿を書いた。

  平成二十六年九月二十五日 亀有牧口区の日

2023.11.8


太陽の励まし  池田名誉会長と誓いの同志  東京葛飾

池田名誉会長が、ここ葛飾の総ブロック長に就いたのは1957年(昭和32年)8月のことである。

 「大作、今度は葛飾を頼むよ 戸田第2代会長の指名であった。

 

 名誉会長は恩師から学んだ将軍学の全てを葛飾に注ぎ込んでいったーーーー。

 

 「私が来たのは任命をうけたから来たのではありません。」「私自ら7、全国に先駆けて、葛飾に模範のブロックをつくるために来たのです」

 9月25日。これが池田総ブロック長の第一声だった。

 「そのような時は御書を徹底して拝読するか、題目を深々と唱えるか、同志の激励をかたっぱしから、もれなくやることです。そうすれば必ず、目の前の壁がパッと開くように解決します」

 ある時は「もう二度と会えないかもしれないという気持ちで、思いのありったけをぶつけて、精一杯、真心の激励をしてあげるのです」

 

 学会員であるなしにかかわらず、頑張っている目の前の人を励ます姿q。葛飾の安穏と幸福を守る責任感ーーその日の感動を、国治さはよく話していたという。

 山口鐘次・・・・名誉会長はご本尊のまえに端座すると「さあ、一緒に勤行をしましょう!」『勤行に勝る指導なし』です。

 名誉会長が葛飾の友に身をもって教えたのは、どこまでも基本に徹する事だった。

 その第一が、勤行・唱題の姿勢である。第二に名誉会長が教えたのが御書根本である。

 異体同心事、石虎将軍、阿仏房御書・・・・会合、個人指導は常に御書を拝した。

 第三に、常識豊かに、社会で勝ち、地域で信頼を得ることを教えた。

 第四に、小さな会合、訪問激励を大事にした。どんな質問にも耳を傾け、具体的に指導した。

  「いつでも本部にいらっしゃい。葛飾だといえば、いつでもあってあげるよ!」とも。

 名誉会長が総ブロック長を離任したのは59年(同34年)7月。第3代会長に就任する10か月前のことであった。

 

 名誉会長の青砥会館滞在は10分余り。一人でも多く励まさずにはおかないという執念に衝撃受けた。

 この後、名誉会長は、葛飾会館(現立石会館)にも立ち寄り、居合わせた友を激励している。

 

 2002年(平成14年)の5月5日。葛飾平和講堂の初訪問も、突然であった。

 作業着、長靴姿で汗まみれた進平さんを見つめると、名誉会長は手を取り、固い握手を交わした。管理者室から飛び出した妻の淳子さん(支部副婦人部長)、次男の進治さん(学生部グループ長)にも温かい言葉を。滞在は10分ほどだったが、着任中の牙城会員、自転車で駆け付けた同志など、会う友、会う友に声を掛け続けた。

 

 「皆で力を合わせ、東京一、いな日本一の、幸せあふれる地域にしていこうではありまんか!」 年前名誉会長は訴えた。

 「一人が10人の本当の友人をつくっていこう」!そこに実質的な広宣流布がある。77年(昭和52年)4月24日、葛飾文化会館ではそう語り残している。

 明るく、楽しく、地域に幸の輪を広げながら、広宣流布の戦いは「かつしかない

 「世界広布新時代」へ先駆ける、葛飾の心意気である。

2023.9.22

 

人間の中へ VOL2 吉村元佑 池田大作と民衆運動

 昭和32年8月14日、それぞれの胸中に金の思い出を残して荒川区指導は終わった。その直後の8月24日豊島公会堂で開催された八月度本部幹部会で、東京のブロック組織の大幅な改革が発表された。この断行は広布史に重要な意義を持つ。それは、東京23区がそれぞれ総Bに分割され、この総Bの下に大B、小Bというその後のブロック制度の原型がほぼ整ったからである。

 この組織改革の人事で参謀室長は、荒川区と接する葛飾区の総B長に任命された。

 西方きみさん     後任 西方国治

2023.9.24 

 


九州青年部第一回新世紀総会  2002.4.22 東京葛飾が大会

 先駆・九州の青年部の皆さん、っして、東京・葛飾の同志の皆さん、本当に、ご苦労様です。なお。東京で、とくに活躍が目覚ましい区はどこか。それはまず、私の故郷でもある「大田」であります。そしてまた、私が青春時代から、苦楽をともにし、作り上げてきた葛飾なのであります。

 創価大学の講堂に集われた4000人の葛飾の同志に、そのまま同時中継されております。「懐かし、大好きな葛飾家族、万歳!と、私は大喝采をもって祝福申し上げたい。のであります。

 私も青春時代、九州でも、また葛飾でもそういうた戦いの歴史を残してきました。大事なのは「一人」です。必死の一人から二人、三人、っそて千人、万人へと波動が広がっていく。ゆえに「一人で決まる!」「一人立て!」これが広宣流布の根本の原理です。

 そして、葛飾の同志の皆さん! 尊敬する若き青島大学の先生方とともに、平和と正義の大航海へ、さっそうと船出してまいろうではありませんか!

2023.8.20


わが友に贈る 2013.7.11

 師弟の歴史が輝く広布の本陣・大東京よ! 完勝の頂を目指して 心一つに前進だ! 栄光の人生を共に!

2021/12/20 13:22


我らの勝利の大道  本陣東京の躍進へ獅子奮迅 2013.5.24

 私は、その後も、新たな戦野に飛び込札幌で、大阪で、山口で、荒川で、さらに葛飾でー勝利また勝利の金字塔を打ち立て、全学会に漲らせていったのだ。

2021/09/23 18:20


池田名誉会長 桂冠詩人の世界 日本の中心 広布の原動力 大東京 平成25年5月10日

おお 常勝 おお連勝の 大東京合衆国よ! 23区も 第二総東京も 首都圏も 大関東も つまり 環東京圏の中に 広宣流布の境界線は ないのだ。

2021/05/02 12:05



我が友に贈る 2012.12.5

誉れの本陣同志よ! 我らの勝利こそ 全世界の希望の光だ! 大東京の底力を 満天下に示しゆけ!

2020/07/13 8:58


広布45周年の開幕を記念 東京葛飾が総会

葛飾は庶民の大城。大東京の心臓部である。昭和32年、池田名誉会長(当時青年部の室長)は無実の罪で大阪拘置所に留置され出獄した後、初代総ブロック長として葛飾の地へ。

 戸田第2代会長の命をうけ広布拡大の指揮を執った。「私自身葛飾の総ブロック長として、徹底して家庭訪問、個人指導を心がけ心がけた。あるときは車に揺られ、ある時は自転車でまだ舗装されていないでこぼこ道をも駆け巡った。心で題目を唱えながらペダルをこいだ。亀有や立石、金町、細田の街角、路地裏・・・・・すべてがあまりにも懐かしい」(随筆新人間革命)以来、一人から一人へ、真剣勝負でで語り抜き、弟子が勝利への突破口を開きゆくのが葛飾の伝統となった

2020/06/13 8:54


祈りこそ勝利の源泉 各部代表者会議を開催 池田名誉会長がメッセージ

 また名誉会長は55年前の1952年(昭和32年)、東京葛飾区の初代総ブロック長として、同志と共に奮闘した歴史を述懐した。その際、地域に根ざした模範の組織を述懐した。その際、地域に根ざした模範の組織を建設するための指針に言及。①勤行・唱題こそ幸福勝利の源泉。白馬が天空を駆け、大宇宙を動かしゆくような強盛なる祈りで前進しよう。②学会は麗しい同志愛の世界。歓喜と功徳に満ちた温かな人間交流のある組織を築こう。③師弟共線てゃ、我が分野で師に応え最高のものを創りあげること。弟子の戦いを貫こう。④信心とは勇気の異名。勇気の二時字で全てを勝ちまくろう。ーーとの諸点を確認した。

 各部代表者会議で、昭和32年の東京葛飾の初代総ブロック長の歴史を述懐

 

平成24年9月24日大久保区長、鈴木本部長、亀有牧口区の日に事務所に来て亀有池田支部の地区部長を要請。受諾 


今週のことば

広宣流布は「人と会う」こと  人間革命は 「勇敢に語り抜く」こと。朗らかに挑戦を!


随筆 新・人間革命 勝利の鉄則20015.19

では団結の鍵は何か。それは、一見、矛盾するようであるが、自らが「一人立つ」ことである。

今、私は東京の地で、厳然と指揮をとる。わが東京よ、わが関西よ、わが日本の同志よ、団結の不滅のピラミッドを築け!

2017.5.21   2020/03/02 10:49


栄光あれ!東京革命の舞 2001.5.14

君よ!生きていくのであれば。世の果てをも越えぬいて 汝自身を感動させながら戦い生き抜いてもらいたい。さあ!広宣流布の原点東京を舞台として正義の戦いは今日も続く明日も続く、そして永遠に続く。

2020/02/22 20:39


君も私も 久遠のあの時 あの場所で 広宣流布の宣言を読みあった仲ではないかもう一度自分の目で読み直そう。2001.3.24  2020/02/02 21:54


葛飾の総ブロック長として、全責任を担い立ちました。御書と師弟 09.9.24

2019/11/06 18:29


偉大なる 葛飾勝ちゆけ 万代に 広布と勝利の 歴史輝け

2019/05/06 21:19 


我が地域の一世帯をどう励ますか。新たな一人を、どう広げるか。それが根本です。 御書と師弟 09.9.24

2018/02/09 16:58


 

昭和32年あの大阪事件の直後、私は戸田先生から、東京葛飾の総ブロック長「現在の総区長」の任命をいただいた。それまでのたて線から、地域に根ざした新体制の模範を、人情味豊かな下町で気づきあげることを、師から

託されたのだ。私は大きな会合よりも、座談会と家庭指導を中心として、新しい大波を起こしていった。」宿縁深き同志のことは、」わが生命から永遠に離れることはない。昭和52年の4月、待望久かった葛飾文化会館の誕生の折も、私は駆けつけた。

そして、語り合った。

「一人が十人の本当の友人を作っていこう、そこに実質的な広宣流布がある」この誓いのままに、葛飾の友は麗しき人間共和のスクラムを朗らかに粘り強く広げてくれている。   人間世紀の光 09.9.20      2017.5.23


池田名誉会長である。まっすぐポスターに向かう。役員からペンを借り、「かつしか」の右下にさらさらと2文字書き加えた。「ない」

名誉会長は振り向いた。

「葛飾は私が初代総ブロック長ちして戦ったところです。葛飾は「勝つしかない」んだ。

 青年部の池田室長が第一歩を記したのは昭和30年の2月27日の日曜日である。香峯子夫人の誕生日でもあった。東四つ木の運送屋で開かれた、連合地区座談会。230人が集った。二階の会場に入りきれない。一階の駐車スペースまで、人が溢れた。

 総ブロック結成大会。昭和32年9月25日n亀有で行われた。「私は人に言われて葛飾に来たのではない。室長の気迫が堂内を圧する」「自分で決めて来たのです。全国に先駆けて、葛飾に模範のブロックをつくりに来たのです」「葛飾の戦い」始まった。

 室長の会合は楽しかった。よそのブロッフが一休みしている間、葛飾はリードを広げていく。下町葛飾は、東京で田舎に見られていた。「これから私は、学会全体を見ないといけない。しかし、私がいつも葛飾で指揮をとっていると思って戦いなさい」

   二万人の心意気

   署名簿に二つの揮毫

「葛飾の 友の幸せ 祈る日々 この身捧げむ 門下守りて」  「此の世の共戦 此の世の人生」葛飾こそ池田門下の筆頭だ。師とともに今世の共戦の歴史を飾るのだ。

 平成14年5月5日、葛飾平和講堂。振り向くと名誉会長夫妻が立っていた。「東京一、」日本一の折伏でがんばった葛飾に敬意を表しに来たよ」勝利の太陽は東から昇る。  09.4.17

2015.7.5 

 


葛飾でまぶしい顔した青年たちの中心に、自分と同じ昭和三年生まれの人物がいた。「うーん、一瞬で若者の心をつかむなんて、たいした方だ」その瞳は、じっと池田大作名誉会長をとらえていた。