民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p068p「大阪事件」扁

 池田の演説は「建物のガラスが割れるかと思うほど迫力だった」という。「炭労がどんなに叫んでも、わが学会は日本の潮であり、その叫びは師子王のさけびであると信じます」

2024.3.9


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p052p「大阪事件」扁

聖教新聞 「寸鉄」

大学の教室をのぞいて見よ。面白い教授の時は満員で、つまらん先生の時はガラ空きだ。

2024.2.7


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p051p「大阪事件」扁

戸田城聖は「北海タイムス」のインタビューを受け・「炭労であろうと、きょうさんとうでもいい、職業を守る闘争なら私自身が旗を持ちたい。炭労が国家のためにやるのなら応援にもいくよ」(1957.6.2)


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p049p「大阪事件」扁

夕張行きを指示されたとき、先生は微笑みながら『本当はお前が一番(デモを)やりたかったんじゃないのか』と言ってくださった。あの一言に胸が熱くなりました。」(頃柳)


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p008p「大阪事件」変

 1957年(昭和32年)1月13日夕刻。創価学会夕張地区大会。初の夕張訪問だった。

2023.12.25


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p136

 第一部隊のメンバーにも『ここにあるのものは、何でも、好きなものから読んでいい』といって自宅の本を持って行かせた。

2023/12/12 17:53

民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p122

『蒸し暑い一日であった。体の、まったく悪るし、肺病、胃痛、糖尿病もか、健康になりたい。次第に、体の衰えゆくことを痛感する。・・・・・強情なる信心を確立せねばならぬことを、反省する。宿命との戦い。自分との戦い。これこそ、一生の信心にふさわしい尊い価値だ。』1954年5月19日

2023.12.6


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p126

 御書の講義などの合間に、戸田先生は『皆の福運はどれくらいだ?』と呼びかけ、『私の福運はこの公会堂いっぱいです。みなは親指でちょっとすくったくらいだ。十年間しっかり信心すれば必ず変わるぞ』とユーモアたっぷりに話しされる。

2023/12/02 17:06


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p122

 「蒸し暑い一日であった。身体の調子、全く悪し。肺病、胃病、糖尿病もか。健康になり次第に、身体の衰えゆく事を痛感する。・・・・強盛なる信心を確立せねばならぬことを、反省する。宿命との戦い。自分との戦い。これこそ、一生の信心にふさわしい尊い価値だ」  1954年5月19日


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p121

 当時、日蓮は弟子達に代筆を頼むほど体が弱っていたが、若くして病に倒れた門下のために自らが筆をとった。それがこの「法華証明抄」だった。

2023/11/28 14:48


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 p116

 池田は上着を脱ぎ、時折、汗を拭きながら語った。「私も病気で苦しみました。胃病とか結核とか、七つの病を患っていました。しかし、私はこのように元気になりました」

2023/11/26 12:22


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 75p 

昭和三十二年から三年間、会社勤めの頃、じつは学会本部の隣のアパートに住んでいたんですよ。と。日本写真協会会長の田沼武能は懐かしそうに語った。

2023/11/24 17:31


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 72p

 ぼくと池田会長との出会いは一期一会だけど、お互いが写真集を贈り合う『写真集友だちなんです。篠山紀信

2023/11/24 15:25


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 70p

 53歳の三木。大手術を乗り越えた。十八日間も意識がなかったという。退院後、池田は三木の自宅まで見舞いに行った。

2023/11/24 15:20


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 66p

三木淳

 池田に対し「あなたの撮った写真で写真展をやるべきだ」と強く勧めたのも三木だった。

2023/11/24 15:14


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 56p

ルネユイグ

「あたしが思うに、池田会長のポエムは口で詠まれた詩であり、写真は眼で詠まれた詩です」

2023/11/24 14:58

民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 53p 

 ある評論家から「写真は趣味か」と質問され「写真は戦いです。二度と来ないこの一瞬を、永遠に留める。これは戦いです」と答えた池田。何を撮り、誰に贈ってきたのか。

2023/11/24 14:35


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 50p

池田はさまざまな境遇の人に、自ら撮影したさまざまな写真を送り続けてきた。

2023/11/24 14:31


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 43

 「自然との対話」展で展示される池田の作品は、すべて風景写真である。

2023/11/24 14:25


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 42

 池田は林を「もっ最も苦難に満ちた場所で、最も苦しい思いをしながら戦い抜いた人こそ真の人材だ」と励ましている。池田は台湾の同志に、数え切れないほどの伝言や手紙を送り続けた。朱夫妻の自宅に、池田から一メートル半の巻紙が届いたこともある。

2023/11/24 14:21


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 18p

 若き日の白川に、思いがけないエールが海外から届いたのは1969年(昭和44年)だった。「六年かけて撮った『アルプス』が日本よりも海外で高く評価されました。その時、無名の私に宛てて、あの歴史学者のトインビー博士から手紙が届いたのです」

2023/11/24 14:13


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 12p

池田にとって、壮健な面影の残る戸田の肖像写真が写真による励ましの出発点になった。

2023/11/24 14:08


民衆こそ王者  青年の譜 篇 希望の4巻 10p

 写真は、自然や人生の一瞬一瞬の姿を光で切り取る。その写真が、今度は人生を照らす「光」となることもある。これまで池田は折に触れて写真を撮り、無数の人々に贈ってきた。

2023/11/24 14:03


民衆こそ王者  母たちの合掌 269p

池田会長は、私の本当の友人だ。だから来たのだよ。

2023/11/24 13:49


民衆こそ王者  母たちの合掌 247p

 「大学の隣に美術館をつくるよ」。

 東京八王子の創価大学を訪問した駐日ウクライナ大使のユステンコ。「何よりの私が感動したのは、美術館がすぐそばに建てられていたことです」と語っている。(2001年7月)

 

創大や創価女子短大のキャンパスには、文豪のユゴー、トルストイ、詩人のホイットマン、タゴール、ナワイー、科学者のキューリー、さらにレオナルド・ダ・ビンチなど堂々としたブロンズ像が数多く立っている。一つ一つに、池田は「人として学ぶべき理想」を託した。

2023/11/24 13:47


民衆こそ王者  母たちの合掌 240p

「これは゛眼で詠まれた詩゛だ」と池田の写真を愛したユイグ。

2023/11/24 13:31


民衆こそ王者  母たちの合掌 238p

ユイグが、なぜ池田大作写真展を企画したのだろうか。

 

こんな時だからこそやるのです。この展示こそが池田会長と私の、友情の証なのだ。

2023/11/24 13:27

民衆こそ王者  母たちの合掌 203p

「大作、戦争は、決して美談なんかじゃないぞ」。池田の耳には、いったん戦地から帰国した喜一の言葉が焼き付いていた。

「長兄の戦死の報を受け取ったとき、母が、黙って、くるっと背中を向けた光景が、今なお、まぶたから離れない。小さな後ろ姿が、かすかに震え続けていた」

2023/11/24 13:01


民衆こそ王者  母たちの合掌 180p

「あっという間に、子どもたちの心をとらえてしまった先生、その聡明さ、率直さ、また純粋さ。そうした先生の心が、私たちの劇場と民音との交流のスタートとなりました。」ソ連で、東京で、神奈川でナターリャは池田と七度、対話を重ねた

2023/11/24 12:32


国道13号の語らい   民衆こそ王者  母たちの合掌 136p

1982年(昭和57年)1月10日・・・・・・・

遅れた理由は事故ではなかった。まさか先生が車から降りてこられるとは・・・・・

「寒いところご苦労様。写真を撮ろうよ!」池田の声を聞き、遠慮がちに見ていた人々も集まり、みるみる四十人を超えた。

 

 あとは会館まで一直線だが、この13号の路上で、池田は合計五回・記念撮影をしている。すべて即席の座談会となった。

2023.11.17


民衆こそ王者 母たちの合掌 102p

 十日、池田は激励の合間を縫って、400行を超える長編詩をつくった。「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」である。この81年と82年、学会は二年連続で「青年の年」というテーマを掲げていた。

2023/11/16 17:51


民衆こそ王者 母たちの合掌 096p

1979年11月21日 箱根研修所 

 丸岡たちは「先生から大分の支部長、支部婦人部長全員に年賀状を送っていただけませんかと頼んだ。

 県下200世帯を超える郵便受けに「瑞春」「創価学会名誉会長 池田大作と記された年賀状が届いた。


香峯子の婦人会館への訪問回数はじつに607回を数えた。   069p

2023.11.11


民衆こそ王者 母たちの合掌 篇 3巻  30p

 「これはもしかしたら、先生ご自身のお母様のことを詩にされたのではないかと感じました」

                  32p

 「母親の具合が悪いんだ。これから大田の実家にお見舞いに行くから、渡してくるよ」

 「その直後の『母』の作曲依頼です。私たちはとにかく『お母様に長生きしていただこう。間に合わせよう』という思い以外ありませんでした」(岩渕)。試行錯誤が続いた。

                  37P

 「母」の歌の誕生からひと月後の九月六日早朝、池田大作を産み、育て上げた一は、家族の唱題に包まれ、息をひきとった。一人の「人間世紀の母」の安らかな最期だった。

2023/11/10 15:23

 


民衆こそ王者 母たちの合掌 篇 3巻

「すごい人が座談会に来るから、信心させたい人を呼べるだけ呼ぶのよ」・・・・・昭和28年。

 担当者として訪れたのは白い開襟シャツ姿の池田だった。十数人の新来者全員が入会した。


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁 第2巻  208p

 村井を宿舎の部屋に招き入れた池田。会うなり「よく来たね! お母さんの法要をしよう」。机の上に御本尊が安置されていた。

脇には、池田の配慮で用意された。咲子の遺影。そして一首の和歌が置かれていた。

  モスクワで

    母の訃報を

       こらえつつ

     君が飾りし

       人形展かな

          五月十日  朝

 

  「一人のために、あそこまでしてくださるなんて思いませんでした」心遣いが身に染みた。厳しく信心の姿勢を教えてくれた母。反抗した日々。思い出の一つ一つが浮かんでは消えていく。題目を唱えながら、涙がとめどなくあふれた。

2023.9.25   


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁   196p

「なぜ学会はこれほどの上げ潮を築くことができたのか。秘訣はなにか」と尋ねた。「それは、私が一人一人の学会員を直接会い励ましたからです」

2023.9.25


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁 第2巻  187p

 嵐に入会を勧めた相沢武彦(北海道参事)が「もっと体を大事にしたら」と言った時、嵐はこう答えた。「私の人生は、あるいは短命かもしれない。だから時間が惜しいの。妙法流布に生き抜いた日々の歴史を少しでも多くわが身に刻んでおきたいの」。

2023.9.25


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁 第2巻  182p

 「時には、彼(戸田)」自身もたじろぐような問題もあった。しかし、彼は逆巻く激流に抗して立つ者の如く、日蓮大聖人の仏法を激流のなかに立つ唯一の杭として、それに摑まる思いで指導した。

2023.9.25


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁 第2巻   154p

正義 と記されている。「なんて激しい字だろう」。しの脇書きを見て、島は思わず声をあげた。「五十四年五月五日 神奈川文化会館にて」 家族全員が池田と握手した、あの日ではないか。

 脇書きには「われ一人 正義の旗持つ也と続けてけていた。

023.9.25


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁   149p  第2巻

 第一に、目の前の一人を全力で励まし、「真実の同志」との絆を取り戻す。第二に、世界につながる横浜の港を望みながら、新たな戦いを起こす。そのために、新しい人を育てる。

 「今まで忙しすぎてできなかったけど、あえからいちばんやりたかったんだ」。

  辞任後の池田の望みは、草創からの功労者宅を、一軒ずつ訪問する事だった。

023.9.25


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁   144p 第2巻

いかなる時も、牧口先生のように〃一人立つ精神〃で生き抜いてほしい。これが、池田が会長公式に行った最後の指導となった。翌月、最高の記念日のはずの五月三日はあろうことか「会長辞任式ともいうべき行事になったのである。会場の創価大学体育館。壇上参加役員

2023.9.25


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁   p  2巻

 小林町の池田さんのところに行きなさい。叔母の円谷マサヨ。十数年間、ある僧のもとで給仕した。日蓮正宗の五十九世の法主を務めた堀日亨その人である。宗内きっての碩学。学会が宗門の興隆に果たした功労をよく理解し、「宗門からがっかいをとったら何も残らない」とまで語っていたという。そのもとにいた円谷は学会員でなかったが、日亨を訪れる戸田城聖や池田とも交流があった。

 悩みを打ち明けた田崎に円谷は答えた。「本物の信心がし知りたければ、宗門ではないよ。東京の小林町におられる、池田さんの所に行きなさい」

 23.9.25


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁 58p

私が入信した時 昭和22年 青年部は実質7人しかいなかった。


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁 52p

 昭和33年9月26日。池田総務は国鉄の特急列車の中で一夜を過ごした。・・・・・

 翌朝、東京に着いた池田は、被害の大きい東京・葛飾に急行している。船上生活者もいる地域。長靴を履いて、中川の土手に向かった。

2023.9.25


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁 24p

「生命は永遠である。宇宙は無限である。生物が住んでいる星は無数にある。宇宙に一つの星が誕生すると、そこに生物や人間が生れ、日蓮大聖人が誕生し、また私たちが生れるんだ」戸田譲りの壮大なスケールである。カズオ。フジイをはじめイギリスの青年たちは、師の生命観の巨大さに驚嘆した。

2023.9.25


民衆こそ王者 池田大作とその時代Ⅱ 励ましの城 扁 9p   第2巻

「永遠の生命がわかる。永遠の宇宙がわかるということから考えれば、途中の功徳や幸福というものは、小さいことなんです」相手が十代だからといって、手を抜かない。むしろもっとも多感な世代だからこそ、真剣に話す。

「私の一生をかけた論文は、生命も宇宙も永遠である。無限である。ということを書くことです。二十年ぐらいかかるかもしれないけれどね。その時、どんな点で科学が発達するかだ。一緒に手伝ってください。

023.9.25


民衆こそ王者 人間革命の奔流 池田大作とその時代    227p

 三度目の来日で、トインビーが語り合ったのは学者だけではない。人々から「経営の神様」と言われた松下幸之助。京都でトインビーと二時間半、懇談した。1967年11月27日 この時、松下はトインビーに「創価学会の池田会長に会うべきだと勧めている。

2023.9.25


民衆こそ王者 人間革命の奔流 池田大作とその時代    186p

 一方、会長辞任後、池田が海外要人と会見する回数は増えていった。宗門事件の対応に追われた一九七七(昭和52年)の「7回」七八年の「十八回」に比べ、辞任した七九年は「四十六回」、翌年は「五十一回」、そして八一年は「100回を超えている役職が変わっても、池田の存在感は変わらない。宗門と本部の緊張関係を冷静に見つめながら池田は着実に民間外交を進めていた。

2023.9.25


民衆こそ王者 人間革命の奔流 池田大作とその時代    184p

 学会本部は、宗門と悪徳弁護士、山崎正友らによる切り崩しに苦しんでいた。

 

 池田はその時の胸中を例えて「目の前でわが子が虐められているのに何もできない。親としてこんなに辛いことはない。この苦しみは親にしかわからない」と吐露している。

 

 しかし、池田は草創からの功労者宅を訪問したり、創価大学、学園の学生たちを励ましたり、一人一人との「直接対話」の道を開いていく。そこに無数のドラマが生まれた。

2023.9.25


民衆こそ王者 人間革命の奔流 池田大作とその時代   175p

1974(昭和54年)4月24日。池田は新宿文化会館にいた。夕刻、信濃町の聖教新聞社で行われる、会長辞任の記者会会見が迫っている。  「さあ、時間だね」五階のエレベーターに乗り込む。池田は周囲の人々に一言、「ドラマは終わった。」と語った。「第二のドラマが始まるよ

 正面を見据えた池田の表情は心なしか微笑んでいるように見えた。

 エレエーターの扉が閉まった。

 その日の夜、十時前に帰宅した池田は、妻の香峯子に、事ここに至った経緯を一切尋ねず、「ああ、そうですか・・・・。ご苦労様でした。健康でよかったですね」池田を笑顔で迎えた。

 普段と変わらない家庭の団欒があり、会長辞任の夜は更けていった。

  後に池田は、苦しい日々を振り返って一句を書き残している。

        嵐にも

          佛の曲あり

             夫婦かな

 

  ここから、どう仏法を弘めるか。

  ここから、どう学会員を守るか。

 「四面楚歌」の四月二十四日。この日から誰も想像つかない「反転攻勢がはじまろうとしていた。

 

    すごい師匠である。

 

2023.9.25


144p

 『人間革命』をはじめとする池田の原稿執筆は、香峯子との〃二人三脚〃のたまものである。

2023.9.25


民衆こそ王者 人間革命の奔流 池田大作とその時代  137p

2005年(平成十七年)九月、八王子市の創価大学。人気の講座『トップが語る現代経営』で温かなまなざしを学生たちに向けて語る一人の人物がいた。中国新聞社特別顧問 今中 亘。

 今中は小説『人間革命』を手にとぅて語る。「一つの信念を貫き通す。池田会長の姿に敬服します。そもそも、これほどの長編は、ご本人にそれだけの歴史、民衆運動の膨大な体験がなければ、到底、書けるではありません」

2023.9.24


       95p

どうすれば、不可能が可能になるのか。池田が示した将軍学は有名である。

 第一の要諦は、強盛な祈り。

 第二の要諦は、最高の作戦、最高の行動。

この二つのようていを調和させる信心ーー ゆえに池田は、一人一人の信心を奮い立たせることから始めた。


       90p

手紙、はがき、揮毫した扇子や半紙、書籍・・・・・。行く先々の、目立たない平凡な家庭で宝物のように保存されている。 

2023.9.22               


民衆こそ王者 池田大作とその時代 Ⅰ 人間革命の奔流 篇25P

1964年(昭和39年)12月2日。

 その時。和室から「パァン!」 と机を叩く音。と同時に「できた!」 立ち上がった池田が、すたすたと和室から出て行く足音がする。

 急いでお茶を替える。机上を見る余裕はなかった。何が「できた」のか。彼女にはわからない。

2021/12/20 10:42